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タイでの成功に自信をつけた野口は、1966年(昭和41年)1月30日、キックボクシングの名称を考案して日本キックボクシング協会を設立し、当時の空手家やボクサーを集めて、同年4月11日に大阪府立体育会館で初めての興行を開催した。この時、直前になって突然大山倍達から「都合があって、申し訳ないが、どうしても選手を出せない」と辞退の連絡を受けた。山田辰雄の道場の選手だけでは試合に足りないことに慌てた野口がこの時急遽出場を依頼した一人が、沢村忠(日大芸術学部空手部・剛柔流空手出身)だった。沢村は大学を卒業し証券会社に入社、堅気の生活を送っていたが運命のいたずらでキックボクシングのエースとなる。日本ボクシング協会理事の野口は、有名ボクサーの息子(ライオン野口(野口進。元ボクシング日本王者で野口ボクシングジム創始者)の次男)であり、帝拳ジムでボクシング業界裏方修行を積んだボクシングの申し子のような人物であった。もともと存在したツテを生かしてテレビ局に対しても積極的に売り込んでいった。野口の政治力、熱意なしに国内に根付くことはなかったとする評価はある種妥当であろう。

キックボクシングは、ブームを巻き起こし、一時はキー局のうち4局(TBSYKKアワー キックボクシング中継)、日本テレビキックボクシングゴールデン・キックボクシング)、NET(現・テレビ朝日、ワールドキックボクシング)、東京12チャンネル(現・テレビ東京、キックボクシング中継))で放映されるほどの人気を誇るまでに至った(NETはすぐに撤退)。一方、山田辰雄は翌年の1967年(昭和42年)死去するが、日本拳法空手道はキックボクシング成立にその後も協力し、“鉄腕”錦利弘はキョードー東京の大選手となった。日本人としては初めてタイ人現役ランカーにKO勝利。日本拳法空手道が組織として関わったのはNET系興行で、江口和明(初代バンタム級チャンピオン)らを選手として送った。極真会館はキックボクシング成立以前からプロ空手の立ち上げを狙っていたが、キックボクシングが成立後、極真ジムを立ち上げてNET系興行に山崎照朝(極真全日本優勝)などの選手を送り込んだ。1971年(昭和46年)に第2の団体全日本キックボクシング協会が旗揚げ。コミッション組織を確立させた上で、藤原敏男をエースに据え、日本キックボクシング協会と双璧をなす団体にまで成長した。

1970年代に入ると本家の野口は野口プロモーションで抱えていた五木ひろしの興行による莫大な利権でナベプロホリプロとの賞レースに参入するなど世間を賑わせていた。その反面、もう一つの興行の柱であるキックボクシングは凋落の道を辿っていた。オイルショック後の大不況、日本テレビの放送打ち切り、沢村忠の休業(のち引退)で興行成績・人気はみるみる下降した。日本をあきらめ香港での試合出場に本腰を入れるも当地での事故発生で興行不能となる。日本のキックボクシング界は統合に向かって進んでいったが焼け石に水であった。

分裂期 [編集]

1984年に、日本のキックボクシングの7団体のうち4団体が解散し合同して日本キックボクシング連盟を設立。同年11月30日に、後楽園ホールで旗揚げを行う。1985年に、日本キックボクシング連盟の元理事長で、六本木で「朋昌」という会社を営んでいた実業家の石川勝将が「マーシャルアーツ日本キックボクシング連盟」を設立。石川は、同団体を追放された形でMA日本を設立した。1987年7月に、マーシャルアーツ日本キックボクシング連盟に所属していたジムが同連盟を離脱し、全日本キックボクシング連盟を創設した。この際、ジムのみならず、認定していた5階級の現役王者全員が全日本キックに流出した。1996年に入ると、全日本キックが完全に分裂し、当時同団体の理事長を勤めていた藤田眞と所属していたジムの大半が離脱。ニュージャパンキックボクシング連盟(以降、NJKF)を結成。1997年10月に「オールジャパンエンタープライズ」が倒産したため、全日本キックボクシング連盟が解散。直後に、有力ジムにより同連盟が立ち上げられ、活動を再開した。1997年に全日本キック所属のジム「アクティブJ」が新団体のJ-NETWORK(以降、J-NET)を結成した。また、全日本キック傘下のジムとして主催興行を予定していた1997年12月21日をJ-NETの旗揚げ興行とし、その日に興行を行った。1998年6月14日に、八王子FSGを中心としたジムが記者会見を開き、彼らは全日本キックを離脱し、キック・ユニオン(K-U)を結成すること明らかにした。

K-1の登場 [編集]

しかし1990年代になり、早くからテレビ界とのコネクションをつけて、空手による興行を行っていた石井和義が、キックの亜流ルール(ヨーロッパキックボクシングルール・肘打ち禁止)で空手やボクシングムエタイなど、多くの立ち技系格闘技の選手を招き、テレビ局との共催で打撃系格闘技世界最強を決めると称する大会「K-1」を立ち上げ、人気を博す。

肘打ちを禁じて流血する度合いを減らし、首相撲によるクリンチ状態になると早めにブレイして膠着した試合を防いだ。見る側であるオーディエンスに配慮したルール制定と、派手な演出でブームを呼び起こした。

新団体の設立 [編集]

2006年5月に、新日本キックボクシング協会所属の藤ジムが離脱を表明し、「天空キックボクシング協会」の設立を表明。元々は興行を開催する事務局だったが、藤ジム会長の加藤重夫の「団体として確立させないと、試合の意義がただのジム対抗戦となり、それでは選手にとって可哀想であることと、ファンにとっても、単に試合があっただけという一過性のままで終わらせるは良くない」という理由により団体として設立させることを決めた。また、加藤は協会の会長に就任した[1]

2006年12月に、アメリカ合衆国オクラホマ州に本部を置く全世界キックボクシング連盟(UKF)の日本進出の足がかりとして、UKFジャパンが設立。理事長には、かねてよりUKFと親交のあった羽田善彦が選ばれた[2]

2008年2月12日に、タイ・バンコクで、山根千抄がWBCムエタイ会長のゴーヴィット・パックディーブーム(WBC副会長兼務)と、ジャパン・プロフェッショナル・ムエタイ・コミッション(以下、JPMC)が日本におけるWBCムエタイが認可する唯一の組織であるという調印を交わした。3月3日にJPMC設立(NPO法人申請中)のプレスリリースを公表し、JPMCが日本におけるWBCムエタイへの唯一の窓口とした。同年10月1日に、JPMCの正式名称を、「コミッション」から委員会を意味する「コミッティ」に改称。同時に、JPMCをWBCムエタイルールに基づくプロのムエタイ活動の窓口として組織を再構することを発表[3]

2009年6月13日に、東京都でJPMC、NJKF、MA日本が共同で記者会見を開き、「WBCムエタイルール日本統一王座決定トーナメント」の開催を発表[4]

同年7月中旬に、全日本キックボクシング連盟代表の金田敏男が逮捕されたことにより、同団体が解散[5]

同年9月23日、「WBCムエタイルール日本統一王座決定戦」において、フライ級、バンタム級、スーパーバンタム級、フェザー級の4階級で初代日本統一王者が誕生[6]

2010年1月23日、M-1ムエタイチャレンジが中心となってジャパン・マーシャルアーツ・ディレクターズ(JMD)の発足を発表[7]世界プロムエタイ連盟(WPMF)の日本本部としてJMDがWPMFルールを管轄する。JMDにはムエタイの他、独自ルールのR.I.S.E.も参加する予定である。

ルール [編集]

団体分裂の影響もあり、ムエタイに近い物から危険な技を取り除き安全性を高めたものまでさまざまなルールが存在する。特に肘や膝を用いた攻撃は流血を伴いやすいく禁止されていることもある。最も極端なスタイルでは肘打ちや膝蹴りはもちろん、団体によってはスネをつかった蹴りも禁止され、腰から上のみの攻撃が許されているというものがある。日本のキックボクシング誕生初期には、ムエタイとの差別化をはかるため、頭突きや柔道式の投げ技を認められていたこともあった。

本項では、大まかな種類に分けて解説する。

フルコンタクトルール [編集]

1970年代にアメリカで発祥したルール。それまでポイント制の空手ルールに満足できなかったアメリカの空手関係者が紆余曲折を経てボクシングを導入する形で確立していった。当初の名称はフルコンタクト空手。1980年代後半あたりから空手のバックグラウンドが必ずしも必要でなくなったためか、フルコンタクト・キックボクシングという呼称で呼ばれるようになった。フルコンタクト空手の名称はこちらがオリジナルで、極真空手に代表されるような、日本のフルコンタクト空手とは関係は無い。ローキック(下段蹴り)、肘打ち、膝蹴りを禁止している。1ラウンド2分で、タイトルマッチは世界戦は12R。選手の服装は、基本は空手衣をモデルにしたサテン製のロングパンツ着用だが、トランクス・キックパンツを選ぶ選手もいる。脚には、脛当てとフットパッドと呼ばれる靴状のプロテクターの着用が義務づけられている。また、ボクシングとの差異を図るため、1ラウンドにつき、対戦相手の腰より上への蹴りを8回蹴らなくてはいけない。8回に満たない場合は、ポイントが減点される仕組みである。このルールによる試合形式は、対ムエタイを標榜する日本では全く流行らず、現在においても行われていない。しかし近年のアメリカ合衆国に於いて、このフルコンタクトスタイルを復活させる目論みとして、フルコンタクトルールをベースに膝蹴り(首相撲は不可、ムエタイでいうテンカオのみ)を有効打に加え、腰より上へ8回蹴る決まりを廃止した独自のルールで争う「World Combat League(ワールドコンバットリーグ、通称WCL)」という団体がチャック・ノリスによって設立された。

インターナショナル・ルール [編集]

別名レッグキック(ローキック)・ルール。一時期の欧米ではこのルールが、“キックボクシング・ルール”とされていたことがある。アメリカのWKAが1977年より全日本キックボクシング連盟と提携することで独自性を確立すべく提唱したルール。ムエタイを機軸とした日本のルールとアメリカのプロ空手(フルコンタクトルール)の折衷案として、アメリカと日本や欧州の選手が同じリングで戦えるようにするために採用された。基本は2分1ラウンドのフルコンタクトルールに大腿部の外側のみのローキックを認めたもので、膝関節や内股への打撃は禁止されていた。1980年代前半までは、選手のフルコンタクト用ロングパンツ着用と1ラウンドにつき腰より上を8回蹴るルールが義務付けられていた。ただし、足へのプロテクションはフットパッドのみで、脛当ては除外された。日本でも1980年代前半の一時期、全日本マーシャルアーツ連盟の興行では頻繁に行われていたルール。続く新生、全日本キックボクシング連盟の興行でもWKAのタイトルマッチなどの国際戦ではこのルールが採用されていた。ただ、この時期より、ロングパンツの着用や8キックカウントは徐々に除外されるようになった。アメリカ国内ではWKA以外ではKICKという団体が世界タイトル戦のみで採用していたルールだが、やがてWKAを含む多くの団体が、このルールを含む複数のルールのチャンピオンを認定するようになり、それにともない、ローキックの攻撃箇所に差異が現れるようになった。

日本式キックボクシング [編集]

ムエタイとよく似ており、ローキック、肘打ち・ボディおよび顔面への膝蹴りを認めている。ボクシング同様3分1ラウンドで1分の休憩を挟む形式が主流で、タイ国内におけるムエタイのように休憩に2分取ることは稀である。ラウンド数は3 - 5であり、3Rは新人選手、トップ選手の場合は5Rで行ってきたが、K-1の影響もあって3Rで試合を行うケースが増えてきている。ムエタイルールとの差異はポイントシステムで、膝蹴りやボディへのキックが大きなポイントとなるタイと異なり、日本の場合は比較的どの打撃も公平にスコアされる。

ムエタイルール [編集]

ローキック、肘打ち・ボディおよび顔面への膝蹴りを認めている。タイのムエタイが賭けの対象であることもあって、ラウンド間のインターバルは2分である。しかし、国際ルールなどでは、1分または1分30秒に短縮することもある。

欧州ムエタイルール [編集]

オランダで発祥したルール。欧州でいち早くムエタイが普及したオランダであったが、安全性の考慮からか肘打ちおよび頭部への膝蹴りが禁止されている。試合は3分5ラウンドで行われる。K-1の公式ルールはこの欧州ムエタイルールをアレンジしたものである

 

  

 
 
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